あるアスペの一生

30歳の失恋をきっかけにアスペルガーとしての過去の人生を否定しようともがき苦しみながら生きている阿呆の一生を書き連ねるブログです。

性欲と、自分の過去の生き方とを天秤にかけた話

私がアスペルガーである自分自身を否定したのは、30歳のときの失恋だった。
失恋自体は、その前に何度も経験していた。
そして30歳のときの失恋が、今振り返れば特別だったというわけでもなかった。
ただ、その時初めて、私は自分の生き方は間違っていたと自覚するようになった。

私は好きな「もの」は好き、嫌いな「もの」は嫌いという人間だった。
これは徹底していたし、未だにそうだと思う。
厄介だったのは、これが「物」であれば私個人の問題で帰着したのだが、「者」だったときに誰かに影響を及ぼすことだった。
そう思えるようになったのも私が自分自身のそれまでの人生をすべて否定した30歳からのことだったが。

私が間違いなくアスペルガーの気質をもっていた根拠のひとつに、一度何かに執着するとそれを手放そうとしない、自分で「それはいけないことだ!」と意識しても手放せないことだった。
その異常なこだわりが、私の人生に最も悪い影響を及ぼしたのが恋愛だった。

私は自分自身の自我が芽生えたと思われる10歳を過ぎてから、異性を意識するようになった。
一番の問題は、それが不特定多数の異性ではなく、特定の異性だったことだった。
自分自身でもなぜそうだったのか未だにわからないが、誰か特定の異性を好きだと意識したら、その人以外のことを考えることができなかった。

一般的な「男の子」はそうでもないようだった。
恋人になってセックスをするチャンスがあるのであれば、多少好みに合わない異性だったとしても、好意を寄せてくれる異性と付き合う友人たちも多かった。
特定の異性に強い好意を寄せて、告白した結果相手にされなかったとしても、数か月すれば自分自身の気持ちを切り替えて、別の異性を意識するようになるものだったようだ。

しかし私は違った。
特定の、自分が「好き」だと認識した異性に執着してしまった。
逆に、自分自身が好きだと思った相手以外を意識することは不純だと勝手に思っていた。

これが相思相愛の関係であれば純愛とでもいえるのだろうが、一般的にはそうならない。
私が相手を思えば思うほど、相手は「重い」、「気持ち悪い」と感じただろう。
それ以前に、私自身は様々な面で社会性に欠如しており、異性からしてみれば魅力的な人間には到底思えなかっただろう。

私は誰か特定の異性を好きになったとき、だいたいはお互いの関係性などを全く考えずに私が一方的に相手に思いを伝えることで、相手から拒絶された。
拒絶されたとき、気持ちを整理して別の異性を探せばよかったものを、そのショックを引きずり、かつすぐに別の異性を求めることを悪だと勝手に思い込んでいたために(このような価値観をどこで身に着けたか未だにわからない)、一度一方的な失恋をするとその後数年はそれを引きずってしまうという経験をしていた。
今思えばストーカー気質の危険人物であったことは否めないし、きっと私を振った相手も面倒だと思っていたいどころか、恐怖すら感じていたかもしれない・・・。

このような私でも、好意を寄せてくれた異性は過去に何人かいたようだ。
普通の「男」であれば、その好意に答えて恋人になることができるのであろうが、私にはできなかった。
また、私は純潔であることが大切だと、自分でもいつ身に着けたか全くわからない価値観を頑なに守っていた。
それを失ったのは、27歳のときに私に好意を寄せてくれた異性がいたからだったが、結果的に私たちにはそれ以上の進展はなかった。
私の気持ちが全く伴わなかったのが理由だ。

 

私は30歳のときに、ある異性との、その当時に私にとっては「運命的」な出会いがあった。
しかし、それまでと同様、恋人という関係になる前に結局拒絶されてしまった。

その後11か月、私は生きているような生きていないような時間を過ごしていた。
今でもそうだが、私は死を極度に恐れる人間だったので、自ら死を選ぶことはなかった。
しかし、自分自身が生きている意味も見出すことはできなかった。
自死もできず、生きている価値も感じられず、ただ事故かなにかで自身の生涯を終えることをひたすら望む11か月だった。
この11か月間、私は常に胸が痛かったのを今でも鮮明に覚えている。
そしておそらく人生で初めて、それまで没頭していた数々の趣味を楽しくないと感じるようになった。
実は今でも、どんなに楽しいことをしていても、どこかで虚しさを感じることがある。

私はその相手を悪く思うつもりは一切ない。
明らかに私の何かが悪かったのだから。
今でも何が悪かったのか具体的なことはわからないのだが、私の何かが、私から距離を置こうと相手が感じるきっかけとなったのには違いないと思った。
そう気づいたとき、私は私のそれまでの過去30年間の人生すべてを否定するようになった。
それが最終的に、アスペルガーだった自分自身を否定することになった。
それは結果的に良かったことなのだと今は思う。

 

私はそのときの失恋がきっかけで、自身がアスペルガーであることを自覚し、それまでの自分自身を否定するようになった。
しかし、もし私がアスペルガーでなかったら、その恋は果たして成就していただろうか。

もちろん仮の話だから断言はできないのだが、私がもし「一般的な男」であったならば、ある程度まではうまくいっていた可能性はあっただろう。
それまでの経験をもとに、適切な時間をかけて、相手との距離を適度に縮めることができたかもしれない。
首尾よくいけば、今頃は結婚もしていて、もしかしたら子供もいる、この国のステレオタイプな家庭を築くことができたかもしれない。
それは私が就職したときに最も理想的だと思い描いていた姿だ。

しかし、私の人生は現にそうならなかった。
そして、そのような人生は私自身のものではない、なにか別の小説の主人公かなにかの話のように思えるのだ。
その理由は、アスペルガーとして生きてきて、それを恥ずかしいとも思わずむしろ誇りにすら思っていた私自身の過去30年間の人生は、私を「一般的な男」にはしないであろうと思ってしまうからだ。
当然のことだが、自分自身の過去を否定することはできても、過去を消し去ることはできないのだ。
私が30歳のときその恋愛が成就していたとすれば、それは既にアスペルガーだった私ではないのだ。

 

私は結局、一人で生きることができない人間だった。
一人で生きるには、あまりにも性欲が強く、異性に依存する人間だった。
一方で異性に依存する割には異性と仲良くする努力もしない人間だった。
その事実に気づいて何年か経った今、少しは「普通の男」になれているのだろうか。
それすらも自分自身では判断できない。

しかし、異性に限らず、相手の気持ちを考える時間を作るようにはなった。
私から見れば「一般的な」人がどのようなことを望み、何を厭うのかを考えるようになった。
通常の発達過程ではそれこそ中学生くらいには自然と身に着けていることではあるが、私にはそれができていなかった。
時々忘れて未だに空気が読めないこともあるが、他者の気持ちを察する努力をするようになったことは、年齢的には遅すぎたとはいえ少しは成長したのだと思う。